毎日の生活空間、暮らしの場をデザインする「造園設計」は、設計者の手腕によって、居心地のよさ、気持ちのよさ、場の快適さ、が大きく左右されると感じます。
そんな暮らしの場のデザイン、空間設計を委ねていただくには、私がどんな人間であるのか、知りたい方もいらっしゃるかもしれません。
まずは、私の自己紹介をさせてください。
松下造園風景舎代表の、松下智宏と申します。
1985年生まれ、2歳の息子と妻の3人家族です。
私が小学生だったときは、科目で言うと図画工作が好きな少年でした。
「箱の中身は秘密」というテーマで、それぞれが箱の中身にどんな世界が広がっているのか、それを考え、製作した授業では、現実的な景色や、祭りのような行事の風景を表現した子もいましたが、私は自分の空想の世界で、箱の宇宙空間に存在している宇宙人が、何人かで遊んでいるような、何やら取り留めもない、そんな世界を楽しみながら作っていたように思います。自分の世界観を表現し、具現化していくことが、その当時のことを振り返ってみても、性に合っているのかもしれません。
そんな少年だった私ですが、高校卒業時に目指したのは小学校の先生でした。
高校生の時に、将来どんな仕事に就きたいか、自分で考えた結果、思い浮かんできたものが二つありました。一つは建物を設計する建築家。もう一つは小学校の先生でした。
今思えば建築家になりたい、とその当時考えた自分は、広義で今の自分の仕事に近い職業の、建築家の道に進むことができていたら、スムーズな人生だったかもしれません。
ただ、その当時の私は数学が大の苦手で、それがネックとなり、文系にかじを切り、将来の目標を、「小学校の先生」と決めました。
大学は教育学部へ、センター試験を失敗するも、何とか一発で合格し、入学し、授業で単位を順調に取得、そのまま将来は小学校の先生になるのかと思っていましたが・・
親譲りの生真面目な性格の私は、現代の教育現場の指導法、カリキュラム、授業の組み立て方など、家庭教師のアルバイトや、キャンプカウンセラー(キャンプ場のお兄さん)などで、現実の子どもたちとふれ合う中で、子どもたちの現実、現状と、学校教育指導との感覚的なずれ・距離感に疑問を持ち始め、両者を行き来する中で、自分の中で消化しきれない鬱積が溜まっていきました。入学時に思い描いていた理想の先生像は、大学で勉強するに連れて、そこで経験した子どもたちとのふれあい、自分の中での葛藤と共に、はかなくも消えていったのでした。
周りは進路を、先生や公務員と決めていく中、自分だけは、そういった先に未来を見出すことができず、悶々とした日々を過ごしていました。その間、教師という仕事に将来就かないのだったらどうしよう、半年間地元に戻り、色々な場所へ行ったり、見聞きしたり、調べる中で、「街の景色をデザインする仕事がある」ということを知りました。
感覚的なイメージで、街に緑の木々があって、人々が行き交う、そんな広場がある。自分の頭に浮かんできた情景ですが、そんな空間を自分が作ることができたら素晴らしい。 何かキーになる体験や、動機に結び付く経験があった訳ではありませんが、そのイメージが私を引っ張っていき、「こういう仕事を将来やっていきたい」 そう思えるようになり、自分の中にようやく希望が湧いてきました。
新たな目標ができた私は、何校か造園の専門学校を回り、先生方に話を聞いて回りました。
その中で愛知の専門学校へ見学へ行った際、先生から言われた言葉が、後々私の進路に影響を及ぼしました。
「造園設計は、現場を知らずにデザインしても、絵に描いた餅のようになる」
やけに納得させられた私は、その言葉が就職時まで残っていました。
造園の専門学校へと入り直し、2年間基礎的な樹木や造園の知識・技能を実習を通して学びました。私がこの造園という仕事を志すことになったきっかけは、街の景観のデザインで、この業界ではランドスケープデザインと呼ばれます。
ランドスケープデザインを専門で扱う会社もある中、専門学校を決める際に先生に言われた言葉が頭から離れない私は、まずは現場に出ないといけない、現場を知らなければ、と京都にある造園会社に職人として就職をしました。
そして従業員として、職人として8年間の時を過ごしました。その間、造園の技能を身に付けるとともに、業界のこと、自分の目指す方向性など、様々なことが見えてきました。
現場での経験とともに見えてきた、自分が感覚として目指していた街の緑や、その風景、それをより具体化したイメージが、ある造園家が作庭した木々の緑の様子や、雰囲気、その空間構成と近しいものだと感じました。
その造園家のことを本を通して知り、ブログで日々の実践を読み知る中で、次第に興味を持ちました。
職人として8年間やってきた私でしたが、それからランドスケープの会社へもう一度就職仕直そうという気にもなれず、元々思い描いていた自分がこの業界を目指すきっかけともなった情景、風景、景色。それを実際に作っている人がいる。独立を目指す私に、その造園家のところへ行って教えを乞い、その感覚を傍で学ぶ、それ以外の選択肢はありませんでした。
京都での8年目を迎える年に、その造園家に連絡を取り、弟子入りを許された私はその親方の元で4年間再修業となりました。
千葉にある高田造園設計事務所に入った私は、当初から驚きの連続でした。親方の考えに基づく施工は、造園の常識を超えており、目から鱗の連続で、それが新鮮で楽しく、最初の半年ほどは時間が経つのが非常にゆっくりに感じました。
ただ月日が経つのは早いもので、4年間はあっという間に過ぎていきました。
私は親方から主に空間構成の感覚を学びたくて弟子入りさせてもらったのですが、在籍した4年の中では、それに加え、視覚的に感じる心地よさ、そしてその場に立って初めて感じる体感としての心地よさ、その感覚を学ぶことができました。
この感覚は言葉で説明するのが難しく、その場に立ってこそ初めて理解できる、心地よさの感覚としか言えませんが、美しい自然の情景を見たとき、心からふと漏れる、はぁ、という声ともいうべきでしょうか。
美しさの感覚、心地よさの感覚、土地や自然との精神的な向き合い方、多岐にわたって勉強させていただきました。
高田造園設計事務所を退社して、地元関西へ移り住んで、今年2024年で4年目。
私の地元は兵庫県姫路市で、兵庫県丹波篠山市は私の生まれ育った故郷ではありませんが、次第にお客様や、知り合いの紹介によって、丹波篠山市界隈や、近隣市町村、京阪神一帯でお仕事の依頼をいただけるようになってきました。
今は個人のお客様を中心に、宿泊施設やクリニックといったお客様もいらっしゃいます。
元々この仕事に就こうと目指したきっかけが、「人々が行き交う広場などの街路空間を、自分の手で緑溢れる空間に設計し、そこを行き交う人々が気持ちよく通り過ぎ、自然と笑顔になってもらえれば・・」という思いからでしたので、今後は、より多くの人が利用する場、行き交う空間、店舗の外空間、街に馴染む植栽風景など、公共性のある場を設計・施工して、居心地の良い空間、憩いの場所を、一人でも多くに方に提供することができれば嬉しいです。
また、少し大きな目標として、10軒ぐらいが軒を連ねる小さな住宅地全体を、植栽を含めて設計し、木立の中に住宅が点々と建っていて、住まう方がその心地よい木立の中でゆったりと暮らしていける、そんな小さな街の風景を作っていけたらと思っています。
木立の中で隙間から射し込む木漏れ日、ゆったりと流れる時間など、その恩恵を授かりながら、豊かに暮らす人々が一人でも多く増え、そのような暮らしを望む人々の手助けをすることができたら、造園家として嬉しい限りです。